夜 間 飛 行 惑 星

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□ 箱庭(小説) □

ヴィジョン

 肩車をしてください、と彼女は私を見上げてきた。
 街は夕方の喧騒に包まれ、家路を急ぐ人たちはみな一様に何かを抱きしめていて、彼女と私だけが時間から取りこぼされたように向き合っていた。
「世界のはてが視えるはずなんです」
 どうして今日のような日にこんな目に合わなくてはならないのか、私は困惑しきっていた。その空気が伝染したようで、彼女も眉をひそめて私を見ている。
 この真冬に、白いシルクシャツにふわふわとした白いカーディガンを羽織っただけの格好だ。踝まで届くスカートも白で、生地の薄さから明らかに夏物と分かる。しかし、不思議と寒そうには見えなかった。華奢な骨組みと透けるような白い肌をしている。彼女自身が「冬」という名の生き物のようだった。誰かに似ている気がした。
「すみません、約束があるんです」
「そんなはずはありません」
 断言されて私は言葉を失う。まっすぐな瞳で私を見て、彼女はこうも言った。
「わたしを見つけたのはあなただけでした」
 まるでそのことに責任があると言わんばかりだ。なぜ、最初に呼び止められたとき応じてしまったのだろう、私は自分のうかつさを呪った。
「肩車をしてくださるだけでいいんです」
 今日は世界のはてが視えるはずなんです、彼女はかたくなに言い張った。精神を病んでいるのかもしれない。こうなると、踵を返して逃げ出してしまわない自分自身も不思議だった。
「心配いらないわ。思うほど難しいことではないから」
 彼女の口調がふいに砕けたものになった。私の諦めを読んだのかもしれない。
「あの橋の上で、わたしを肩に乗せてくれるだけでいいの」
 歩道橋を指差して、信頼の眼差しで彼女は私を見た。肚を括るしかないと思った。
 地上では感じられなかった風が、歩道橋の上には吹いていた。思った以上の高さに、私は急に不安を覚えた。
「だいじょうぶ、怖いことも危ないことも起こりはしないから」
 敏感に感じ取ったように、彼女が私を宥める。聖母のような慈愛に満ちた声音だった。
 私は覚悟を決め、荷物をその場に下ろして彼女の足許にしゃがみ込んだ。
「どうぞ」
 彼女は貴族が輿に乗るような優雅さで私の肩に跨ってきた。
 彼女の足首を掴み、腹に力を込めて私は立ち上がった。
 正確には、立ち上がろうとした。
 すとんと足下の落ちる感覚があって、次に気付いたときには私は元の場所に立っていた。
 突っ立ったまま夢を見ていたのだろうか。両手にぶら提げた紙袋の重みがやけにリアルだった。
 十五年勤めた会社を、私は今日付けで辞めてきた。袋の中には処分し残した身の回りの品が詰まっている。依願退職だった。
 歩き出しながら、勤めを続けるために犠牲にしてきた多くのものを思い浮かべる。妻の笑顔も疲れた顔も、たとえ明日から罪滅ぼしに専念したとしても取り返せないものだ。なぜもっと早く気付かなかったのだろう。
 妻の心は静かに壊れて今は遠くにいる。
 自分を責めて楽になれるものなら、あの歩道橋から飛び降りたってよかった。
「だいじょうぶ」
 ふいに風に乗って声が届き、私は顔を上げる。歩道橋の上から白い彼女が手を振っているのが見える。
「だってあなたは肩車をしてくれた」
 私は呆然と、風に翻る彼女のスカートを見つめた。こんなに離れて鮮明に声が聴こえることを、奇妙だと感じる余裕もなかった。
「わたし、世界のはてを視たわ」
遅れて、あっと思った。
 いつか妻は、子ども時代の話をしてくれたことがあった。
「お父さんに肩車してもらってる子たちが羨ましかった」
 妻は早くに実父を亡くしていた。義父は穏やかなやさしい人柄だったが、少女時代の妻は遠慮して甘えることができなかったのだろう。
「あの肩の上からどんな景色が視えるのだろうって、いつも考えてたの」
「世界のはてかもしれないな」
 深刻さを紛らそうとおどけた私の答えに、妻は首を傾げるようにうなずいて笑ったのだった。
 どうして忘れていられたのだろう。
 私は踵を返して歩道橋に駆け登ったが、彼女はもうそこにはいなかった。自分の属する処へ還ったのだろうか。
『だいじょうぶ、あなたは肩車をしてくれた』
『世界のはてを視たわ』
 熟れて崩れたようにビル街に落ちていく夕陽を見つめて、ああ、そうだ、と思った。
 やり直せないなんてことはない。たとえどんなに壊れても。遠く離れても。
 私たちはまだ生きている。
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