夜 間 飛 行 惑 星

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□ 箱庭(小説) □

36.5℃

「俺たち、もうこれきりにしよう」
 普段どおりの感情を混ぜない声で低く言い放って、葵が、二本目の煙草に火を点けた。窓の向こうの通りで信号が青に変わり、車がいっせいに走り出す。
 僕は映画のパンフレットから顔を上げた。彼の手許へ目をやる。
 一目で育ちの良さをうかがわせる細くて長い指が、今は苛立たしげに煙草を弄んでいる。長くなりすぎた灰がテーブルに落ちた。
 自分で指定した待ち合わせの時間より幾分遅れて店に入ってきた葵から、大学に退学届けを出してきたと、ついさっき僕は聞かされたばかりだった。
 一口も喫わないまま燃え尽きてしまった煙草を灰皿に押し付けて、葵は新しい煙草をくわえた。だが、火は点けないまま、窓の外へ視線をさまよわせている。
 二人が男女なら、これを、別れ話というのかもしれない。
 葵はライターの蓋を繰り返し弾いている。そういう、意味の薄い行為の似合う手だった。
 相変わらずの無表情で、さっきのつぶやきなどもう忘れてしまったようにも見える。
 曇った窓の向こうにはすっかり葉を落とした街路樹があり、コート姿で往き交う人々の姿がある。
 冷めて酸味が勝ったコーヒーを啜りながら、僕はそれらを見るともなく見やっていた。
 葵の言葉は僕にとって絶対だった。



 何が始まりだったかは忘れた。
 鉄棒が不得手だとかテストの点が一人だけ良かったとか、今思い出したら笑うしかないような下らないきっかけに違いなかった。そのころ僕はクラスでいじめられていた。
 ある日の帰りも数人に囲まれて、奪われたランドセルを中身ごとプールに放り込まれてしまった。
 夏だったように思う。でなければ、あんなに水が澄んでいたはずがないからだ。
 プールサイドで僕は途方に暮れていた。
 移り気ないじめっ子たちは僕を囃すのにもすぐに飽きて、ドッジボールのために走り去ってしまった。置き去りにされるのは、いじめられるより心細かった。
 ランドセルはまだ辛うじて浮いている。この間に何とかしなければと思うのに、僕の身体は竦んでしまって動かない。
 泣きたい気分が頂点に達したときだった。
「何してるんだ、日生 (ひなせ)」
 同じクラスになって三か月、葵とはこの日まで口もきいたことがなかった。彼は身軽に金網を乗り越えて僕の隣に立った。
「自分でやったわけじゃないんだろ」
 僕はうなずいた。待ってろ、と葵は言って更衣室のほうへ駆けてゆき、戻ったときには柄の長いデッキブラシを手にしていた。
 かなりの苦闘の末、二人とも上半身をすっかり水に濡らして、ようやくランドセルは引き上げられた。
「ありがとう」
 葵は僕がハンカチを差し出すのを断って手の甲で額を拭い、僕に向かって眉をしかめてみせた。
「見てられなかっただけだ」
 それから僕らは、服とランドセルの中身が乾くまで押し黙ったまま肩を並べて金網にもたれていた。
 暮れてゆく空を目が痛いくらい光る飛行機が横切って長い飛行機雲を描いたことを、憶えている。

 葵はその日から僕を選んで話をするようになった。
 十一歳にしては大人びた少年だった葵は、いじめとは少し違う方向で、しかし確実にクラスからは浮いていたのだ。
 葵は多くのことを知っていた。星の名前も鳥の名前も、僕は葵から教わった。
 世界中の古い伝説や宇宙の起源について葵は、僕の前でだけ見せる熱っぽい口調で語った。
 葵は決して、クラスのみなが思っているような変人でも利己主義者でもなかった。でも、それを知っているのは僕ひとりでいい。
 彼と親しくするようになって、いじめられることはなくなったかわり僕もまた浮いた存在になっていった。
 それで構わなかった。
 僕は葵に夢中だった。

 葵はしばしば暴君でもあった。
 それは相手が僕のときに限られ、僕が降参を訴えれば終わる、他愛のないゲームのようなものだった。
 一度は真冬の雨の日に三時間の待ちぼうけを食わされた。
 待ち合わせの指定はいつも葵が行う。
 僕はその日、バイトが長引いて約束に間に合いそうになかった。
 葵の携帯電話は留守電になっていた。仕方なくメッセージだけ吹き込んで、僕は走った。
 到着の直前に雨が降り始めた。その日の待ち合わせは屋外だった。僕は迷った末に傘なしで待つことを決めた。
「馬鹿じゃないのか」
 葵が現れたのは、観る予定だった映画の最終上映が始まった直後だった。
 銅像の台座にもたれて座り込んでいた僕の靴の爪先を踏むようにして、葵はいつもの仏頂面だ。
 僕は笑った。一時間待ってしまえば、二時間も三時間も一緒なのだ。葵も傘を持っていない。不思議と腹は立たなかった。
 レンタルビデオを仕入れて、二人で僕の下宿に戻った。
 葵は通学圏ぎりぎりの自宅から大学に通っていたので、こんなふうに僕のところに泊まっていくことは多かった。
 僕がシャワーを浴びている間に、葵はコーヒーを用意していた。コーヒーを啜っているとピザ屋が配達に来た。
「俺が頼んだんだ」
 僕を制して葵が出、奢りだと言って譲らなかった。
 あとになって葵は、あの日はずっと通りの向かいの喫茶店にいたと僕に向かって告げた。
「おまえが走ってきて、三時間雨に打たれて、濡れているのを、見ていた」
 このときも彼は、僕を怒らせようとしたのかもしれない。だが僕には、葵が結局は現れたそのことのほうが重要だったので、そう、とだけ応えた。
 僕は冷たい人間かもしれない。
 葵はいつも、あらゆる物事に苛立っていた。彼のこまやかな神経は、悪意にも善意にも不正にも偽善にも、いいかげんであることを自分に許さないのだ。
 神経をすり減らして、葵は世の中に対峙していた。そんな彼を僕はただ見ていた。
「おまえは馬鹿だ」
 と彼はよく言った。彼のどんな仕打ちも僕が受け容れることへのあてつけだった。女の子を追い払う口実に利用されたこともある。気にならなかった。
 高校も大学も同じところを選んだのは、葵がさりげなくそう仕向けたからという以上に僕が望んでのことだった。
 彼の苦しみは彼ひとりのものだ。彼のどんな苦しみも癒せないのならせめて、傍にいて見届ける者でありたいと僕は願った。
 そしてそのためなら、捌け口でよかった。

 もちろん葵も僕も、それぞれに他者との付き合いを持っていた。
 中には共通の知人もあって、たいていは僕らの関係を不思議がった。
「気が合ってる、って感じにも見えないのにね」
 ゼミで一緒の女の子に言われたことがある。
「ああ、でも、二人とも他人に興味なさそうなところは似てるかも」  彼女からは付き合ってほしいと言われたが、僕は笑って受け流した。確かに僕は、他人に興味がなかった。
 構内で葵を探しているとよく、相方なら向こうで見たよと声をかけられた。相手は知り合いのときもそうでないときもあった。
 僕とワンペアに見られることを葵がどう思っていたかは分からない。
 確かに僕らは多く二人きりで過ごし、時の経過にしたがって知人が増えるのと反比例するようにかえって第三者を必要としなくなってもいた。
 それでも、僕らはほんとうの意味では友達ですらなかった。そう僕は認識している。
 始まりから終わりまで、ただの一度も、葵と僕との間に友情の存在したことはなかった。
 葵は僕に本質的には関心がなかったし、僕は葵がどんな人間でも構わなかった。
 葵は僕に、僕は葵に、求めもせず与え合うこともないまま、この十年を過ごしてきたのだ。
 だから、いつかこんな日の来ることを知っていた。
 二人でしかいられなくなったら、それが、終わりのときだと思っていた。



 「出ようか」
 腕時計を気にしながら葵が言った。僕は黙って伝票を取って立った。
 観葉植物の葉がうそっぽく鮮やかな緑色に輝いている。コートを手にした葵がかすかに咳き込んだ。
 差し込む弱い日差しに宙を舞う埃が光って、不思議にきれいだった。
 おまえは馬鹿だと言いながら、葵はたいてい不機嫌そうだった。あるいは彼のほうが胸を痛めているのではないかと、僕はたびたび思ったものだ。
「コーヒー代」
 先に店を出ていた葵が五百円硬貨を投げてよこした。
「いいよ。先週バイト代が入ったところだから」
「日生に奢られるほど落ちてないよ」
 葵は僕の腕を押し返すような仕種をしてやんわりと笑い、その表情に僕は傷ついた。
 僕は冷たい人間だった。見ているだけだった。葵のどんな苦しみにも、手を差し伸べようとはしてこなかった。葵の怒りに感応することができなかった。
 葵を受け容れ続けることで、彼を二重三重に苦しめながら自己犠牲の快感に酔っていた。
 ほんとうに冷たいのは僕のほうだった。
 「日生?」
 なかなか歩き出さない僕を訝って、葵が踵を返して戻ってきた。僕の顔を覗き込む。
 何でもない、と僕は言おうとした。だが、唇が震えただけで声にはならない。仕方がなくかぶりを振った。
 葵はそれを見てちょっと笑った。
 行こうと促されて歩き出しながら、あの角で終わるのだ、と僕はぼんやり考えていた。葵の使う私鉄の駅は通りを渡った向こうで、僕の下宿は左へ折れた先だ。
 葵はもう、すべてを捨てた身軽さで口笛を吹いている。
(俺たち)
(もうこれきりにしよう)

 今日、葵に会うまで僕は、一人で映画を観ていた。
 昨日葵から明日の三時に大学前のカフェでと言われたときに、楽しい話ではないと直観したのだった。
 朝から出かけていないと予感の重さに圧されると分かった。
 映画は三本立てで、SFともミステリともつかない不思議な筋立てに斬新な映像のわりに好きなタイプの作品が一本目だった。
 主演の女の子が可愛いなあと思いながら観ているうちに、そんな内容でもないのに僕は涙を流していた。
 驚いたが、どうしようもなかった。
 いったん身体が泣きのモードに入ってしまうと涙は容易には止められず、僕は暗闇でポケットを探った。
 ハンカチはなく、さっき信号待ちの交差点で押し付けられたティッシュが出てきた。他の観客に気を遣いながら僕は洟をかんだ。
 涙がやんだあとも鼻は詰まったままで、頭をぼんやりさせたまま僕は、スクリーンの前で五時間を過ごした。
 葵も映画が好きで、僕たちはよく二人で映画館に足を運んだが、並んで掛けたことは一度もなかった。入り口で待ち合わせて一緒に入り、別れて座り、出口で落ち合った。
 葵は、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえながら出てくるようなときには、後になってからもよくその映画を話題にした。
 地下の映画館から地上に出てみて、風が予想外に穏やかなことに肩透かしを食らった気分になる。
 空は冬晴れと呼べる青さで、不安も思い過ごしかと目の眩むほどだった。

 彼にとっては気まぐれに猫を飼うくらいのことだったのだろう。
「じゃあな」
 明日また会うような気軽さで葵は手を挙げ、僕はうなずいて行きかけたが、ふと思いついて彼を呼び止めた。
「葵」
 振り返った葵は、両手をポケットに突っ込んだコートの裾を翻して、ひとりの王様のようだった。
「何」
「ひとつだけ頼みがあるんだ」
 僕は彼の靴を見ていた。黒い革靴は爪先が少しだけ土埃に白んでいた。
「握手をしてくれないかな」
 言ってしまったあとも僕は顔を上げずにいたので、葵がどんな表情でそれを聞いたか知らない。
 十年の間ただの一度も、僕らは互いに直接に触れたことがなかった。ふざけてでも喧嘩でも。それも、僕らが友達でなかったことを証明している。
 だが、もうこれきりだというのなら、最後に一度だけ、葵の体温を識ることを許されてもいいのではないかという気がしたのだ。
 短い沈黙のあと、笑う気配があった。
「そんなことでいいの」
 葵がポケットから手を出し、ほら、と差し出した。僕は半ば怯えつつ、その手を握り返した。
 軽く上下に振られた手を自然の流れのまま離しかけたとき、逆に強く引っ張られた。
 痛みだけが残った。
 放り出すように僕の手を離して、信号の点滅しだした通りを葵は笑い声を上げて駆け去り、振り返らないまま駅に続く階段へと消えた。
 何が起こったかを理解するのに時間が要った。
 すべてが正しい順序で認識されたとき、僕は、堪らず歩道に膝をついていた。
 葵に噛まれた。
 掴んだ僕の手に葵は貴婦人への挨拶のように自分の唇を寄せ、中指の第二関節にそのまま歯を当てたのだった。
 葵が僕を噛んだ。
 自分の両腕で自分を抱きしめ、僕は呻いた。
 葵の掌は僕より広く、そして乾いていた。冷たくはなかった。むしろ想像したより温かかった。
 けれどその温もりだけなら、僕は葵を、いつか思い出にもできたのに。
 こんな形で傷を残されてどうして、彼を忘れられるだろう。
 僕は彼によって、最後に、もっとも酷く突き放されたのだ。
 分不相応な望みを抱いたことに対する、これは罰か。
 これが、罰か。
 数軒先の花屋から明るいクリスマスソングが流れ出してくる。店先のポインセチアが造り物のような色彩で僕の傷んだ目を刺激する。
 玩具のようだと言いながら、葵は十二月になるとこの鉢を飾っていた。騒々しいと眉をひそめながら、ほんとうはこの季節も嫌ってはいないのを知っていた。
 彼が好きだった。
 僕は彼が好きだった。
 このままここで眠りに就き、目が醒めるときにはすべてが雪の中ならよかった。冷たく凍てついた世界の中で、掌に残るのが彼の熱だけならどんなによかったかしれない。
 けれど葵は、僕を噛んだのだ。
 敷石の冷たさが膝を固くしていた。動けそうになかった。ついに肩を落としてうずくまりながら、人目も憚らず、僕は泣いた。
(僕は彼が、すきだった……)



1998/Winter:加筆訂正2000
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