夜 間 飛 行 惑 星

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□ 箱庭(小説) □

月食

 彼と知り合って間もないころに、彼の葬儀に行き合う夢を見ている。
 苔むして墓石みたいに陰気な無人駅に、わたしは佇んでいた。なぜそんなところにいたのか。それは分からない。誰かを待っていたのかもしれない。
 若い女の一団が線路伝いにやってくる。みんな大声で哭いている。弔いの行列だ。嘆きの深さから、死者もまた若いのだろうと知れた。
 葬列は近づいて、神輿のように高々と担ぎ上げられた石の棺をわたしは認める。
 棺を囲む女たちの中に、見覚えのある女性がいた。彼の恋人だ。両手で顔を覆って激しくむせび泣いている。
 では死んだのは彼なのか、と低い感情でわたしは思った。不思議と悲しみは覚えなかった。
 ただ、羨ましかった。人目を憚らずに泣きじゃくることを許されている彼女を、わたしは羨望した。
 彼の恋人だったというだけで彼女には、この場で涙を見せる正当な権利があるのだ。
 わたしは、まっすぐに頭を上げたまま、通り過ぎてゆく彼の棺を見送った。
 彼を悼んで泣こうにも、わたしには、それを能くする裏づけがなかった。

*

 図書館や学生食堂で、わたしと彼とがすれちがうようなとき、彼は必ず足を止めて会釈を寄越す。
 わたしも立ち止まり、わたしたちは二言三言、天気や来週の講義について言葉を交わし、手を振りあって別れる。
 彼の、親しい相手に対しても控えめな礼儀正しさを、わたしは好ましく思っていた。
 ときに彼が恋人と一緒のところへ行き合わしても、わたしに対する彼の態度は普段と変わらない。
「ミトウさん」
 彼はわたしに声をかけ、清潔な笑顔を見せて、調子はどう、と訊いてくる。
「まあまあ」
 わたしの答えはいつも決まっている。彼は屈託なく笑って、わたしをからかう。
「たまには、絶好調って言ってみてよ」
「わたしの絶好調なんて、不気味なだけよ」
「なおさら見てみたい」
 わたしたちが言葉を交わすあいだ、彼の恋人は彼の隣で、柔らかな笑みを浮かべて佇んでいる。会話に入ってこようとはしない。そこに、彼女の自信と安心とが感じられる。
 ヒナ鳥が親鳥に対するような無垢な信頼の眼差しで、彼女は彼を見上げている。わたしはなんだか白ける。
 彼女は、自分が彼の碇であることを疑わないのだろう。だから、彼の傍に誰がいても来ても、平気で笑っていられる。自分の幸福がほかの誰かを苛んでいるかもしれないことを、夜眠りにつく前のほんの短い時間にも考えてみたことなどない、無神経でおしあわせな女の子。
 だが、わたしは、あえてヒナ鳥を傷つけたいとは思わない。親鳥がヒナを愛していることを知っているからだ。ヒナから親鳥を掠めとりたいとも思わない。
 彼に何かを喪わせることを、わたしは望まない。
 わたしの幸福は、彼の幸福を見つづけることだ。その願いさえ満たされるなら、彼の幸福な人生にわたし自身は参加できないとしても、苦にはならない。
 誤解をおそれずに言うなら、わたしのほうが彼の恋人よりずっと切実に彼をあいしている。彼という人は、彼女より、わたしにとってこそ必要だ。
 それでも、彼女が彼の恋人になれて、わたしがそうはなれないのは、道理にかなったことなのだ。人には向き不向きがある。
 わたしの愛情はいつも、愛情そのままに自足してしまう。対象を求めることを行わない。誰かを好きになってもわたしは、自分がその人を好きだという、そのことだけで満足できた。
 求めない望まない期待しない。それはまったく、無欲どころかある種の強欲だ。
 奪わぬかわりに、与えもしない。
 彼の恋人になりたいと思ったことはない。
 彼を所有したり彼に所属したり、したいと思ったことはない。
 わたしはわたしに、どのような局面でもわたしであってほしかった。
 愛しても愛されても、影響したりされたり、したくはなかった。朱に交わって赤くなるなんて、許せない。
 そのせいで一生を孤独に過ごそうとも、いっこうに構わなかった。
 にもかかわらずわたしが辛いのは、もっと本質的でいっそ他愛のない、ある望みのせいだった。

*

 三コマ目が休講になったので、友人たちと連れだって学食へ向かう。
 朝から頭痛がしていたので、ほんとうはクーラーのきいた場所は避けて休みたかった。
 ふだんのわたしならとっくに、みなと別れるほうを選んでいる。一緒になった男の子たちの中に、彼も混じっていたのだ。
 自分の浅ましさが身を抉る。それでも、彼の近くで過ごせる数少ない機会をみすみす逃したくはなかった。
 思い思いの飲み物を手に、席に着く。わたしは巧妙に彼の斜め向かいに位置を占めた。ここなら、不自然でなく彼を視界に収めつづけることができる。
 わたしたちの話題は、先週から始まったテレビドラマのことから小刻みに振幅を広げて、週明けの小テストにまで及んだ。
 一つの話題が終わりそうになると、別の誰かによって次の材料が提供される。シルクハットから途切れなく鳩の取り出される手品を見ているようだ。
 わたしは、適当に相槌を打ったりたまに追従して笑ったりしながら、ほとんどぼんやりしていた。
 何度か、偶然にうまい角度で、彼とも目が合った。そんなとき、精一杯の親しみをこめて、わたしは彼の目を見返す。
「ミトウさん、どこか具合でも悪いんじゃない?」
 話題の途切れた隙をついて、ふいに彼が言い出した。わたしはひどく面食らう。
「どうして」
 なんとなくだけど、とつぶやいて彼は肩をすくめる。みなの注目が自分に集まるのを感じながら、わたしは白状する。
「ちょっと頭痛がしてる。けど、大したことはないわ」
 彼が、じっとわたしを見た。わたしは、自分の台詞を裏づけるように微笑んで見せた。
「だいじょうぶ」
 彼は、小さくかぶりを振ると、半分くらい中身の残った紙コップを手に椅子から立った。静かにわたしを促す。
「外へ出よう」
 わたしたちは、みなをその場に残して二人だけで表へ出た。中庭のベンチに並んで腰を下ろす。
「ああ、風が気持ちいいな」
 彼が大きく伸びをしてつぶやく。滴るような緑が、彼の頬や首筋に反射している。
「実は、冷房って苦手なんだ」
 いたずらに成功した子供のような表情で、彼はわたしを覗き込んでくる。
「ごめんね、ミトウさんをダシに使っちゃって」
 わたしは笑った。彼らしい気の遣い方だと思った。
 次の時間を報せるチャイムが鳴るまで、わたしたちは水を零すように短い言葉で語り合った。
 どれもおよそ実生活の役に立ちそうもない事柄だったけれど、彼とわたしのあいだの弱い引力のためにはきっとそのほうが相応しかった。

*

 久しぶりに会った高校時代の親友に、彼の話をした。
「奪(と)っちゃいなさいよ」
 わたしが話し終えるなり、何事にも精力的な親友は、語気も荒く言い放った。わたしは笑ってかぶりを振る。
「相手がいるからって気兼ねするなんて、ナンセンスだわ」
「そんなんじゃないのよ」
 どう説明すれば、分かってもらえるだろう。わたしは言葉を探す。
「彼に恋人がいるとかいないとか、そんなことは問題じゃないの。彼がひとりでも、やっぱりわたしは、恋を仕掛けたりはしないと思う」
「卑怯ね」
 ばっさり斬られた。見抜かれている。高校生のころから、わたしはこの人に敵わない。
「変わらないわね、あんたって。昔からそう。欲しがらなければ失わない、失わなければ傷つかない、そんな態度で一生やり過ごせるとでも思ってるの」
「傷ついたり他人を傷つけてまで、求めなければいけないの?」
 うっかり本音が出た。親友は、コーヒーカップをソーサーに下ろして、わたし見据えてきた。
「じゃあ、なにひとつ求めてなどいない、ってあんた本気で言い切れるの」
 鋭い針のように、その言葉はわたしを貫いた。
 黙り込んだわたしを、やさしく諭すように親友は続ける。
「分かったでしょう。あんたは、自分が傷つかないで済む程度に、欲望を加減しているだけなのよ。ネコ用のミルクみたいに生ぬるい気持ちで、ずるいやり方で」
 ちがう、と言いたかった。手加減なんかじゃない。けれど、言葉は喉に貼りついて、どうしたって剥がれてくれない。
 言い負かされた格好のまま、わたしは親友と別れた。なんらかの展開があれば報告することを約束して。
 ひとりになって街を歩きながら、わたしは、親友に言われたことについて考えてみる。
 わたしは確かに卑怯かもしれなかった。けれど、親友には誤解がある。
 あいしてしまったら、おしまいなのだった。
 わたしの目盛りはいっぱいになる。どこにも隙間がない。こんな状態で、相手と自分との行く末にまで思いを馳せられるわけがない。それが生ぬるく見えるなら仕方がないが、断じて手加減しているわけではなかった。
 わたしに痛かったのは、なにひとつ求めてなどいないと本気で言い切れるのか、と迫られたことだった。
 言い切れない。
 親友の短絡思考を責める気はないが、相変わらずわたしには、彼と恋愛をしたい気持ちはなかった。わたしを辛くするのはだから、彼を奪えないことではない。
 それでも、このあいだのようなことが度重なれば、叫び出したくなるのを抑えることは至難の業だった。
 彼が控えめに示してくれる親愛は、わたしを狂喜させ、同時に打ちのめす。
 分かっている、とわたしは自分に言い聞かせる。これは何も特別なことじゃない。彼はただ、友人として、わたしに礼を尽くしてくれているだけなのだ。
 求めすぎてはいけない、とつよく自分を戒める。それでも心は募った。
 どうすればいいのだろう。
 望みはごくありふれたことだった。
 わたしが彼を特別な気持ちで想っている、そのことだけは、彼にも知ってほしい。そのうえで、これまでどおりに友達としてやってゆければ、それで充分だった。
 親友には、そんなムシのいい願いはないと、一刀両断にされるだろう。危険を犯さない範囲で何かを捕まえていようとするなんて、欲が深すぎると責められるのだろう。
 しかも、今のところわたしには、告白の意志すらない。万が一にも彼の態度が変化するようなことがあったら、堪えられないと思うからだ。
 以前、つきあっていた相手との別れが近くなったとき、二人のあいだに見えない風が吹くようだったことを覚えている。わたしはその人のことを特別に好きなわけではなかったが、それでも、終わりを感じることは胸を詰まらせた。
 彼とのあいだにもあの風が吹くかもしれない、と考えてしまうことは恐ろしかった。
 このままなら、一生でもつづけられる。
 しょせん卑怯なら、口を噤んでいようと思っていた。

*

 用事を済ませて図書館を出たとき、あたりには薄い闇が降りはじめていた。
 自転車の前カゴに荷物を投げ込んで、下宿へ続く坂道を下ってゆく。朱い満月が、右斜め前方に架かっている。
 月を睨みつけながらいつもよりきつめにブレーキをかけつづける。
「ミトウさん」
 角を曲がろうとしたとき、後ろから声がかかった。わたしは振り返る。彼が、手を振りながら坂道を駆け下ってくる。
 勢いがつきすぎていったんわたしの前を通り越してから、身体を反転させて、彼はわたしの前に立った。肩で息をしている。この長い坂道を、ずっと走ってきたのだろうか。
「よかった、追いついた」
 屈託なく彼は笑う。
「サークルのボックスから、ミトウさんが自転車に乗って帰ってくのが見えたから、急いで追いかけてきたんだ」
 わたしはいささか呆れる。
「無茶をするのね」
「見せたいものがあるから」
 なに、と訊いたわたしにすぐには答えず、彼は、小高い丘になっている造成中の宅地を指さす。
「急いでるわけじゃないんでしょう。あそこで夕涼みしていこうよ」
 訝りながらも、わたしは自転車を歩道の脇に停めた。彼と一緒に丘の上に立つ。
 夏草の鋭い匂いが鼻を突く。加速度的に暗さは増して、月もすでに白い。
 彼に促されてわたしは空を見上げ、息を呑んだ。
「今日は満月だから、暗い星は見えにくいけど」
「それでも、すごい」
 久しく夜空を見上げたことなどなかった。自分の生活圏内でこんなに多くの星をみることができるなんて、気付きもしていなかった。
 あれがさそり座、あれはいるか座、へびつかい座、かんむり座。
 彼が、ひとつひとつ指で示して教えてくれる。
「ずいぶん詳しいのね」
「小学生のころ、図鑑を読むのが趣味だった」
 わたしが感心すると、彼は照れたふうに手で顔を扇ぎながら笑った。
 草の上に並んで腰を下ろし、落ち着いた声で語られる神話に耳を傾けているうちに、宇宙でたったふたりの人類になった気がしてきた。
 わたしが彼にそう言うと、彼は神妙な顔をして、人はそれぞれの宇宙でたったひとりの人類だと応えた。
 風が吹く。
 手許の草をちぎって唇に押し当ててみた。そのまま強く息を出すと、旋律のない高い音がはかなく尾を引いた。彼も真似をする。
 わたしたちは、うつむきかげんに膝を抱えて、草笛を鳴らしつづけた。
 唇が青く染まるかと思うほどだった。葉が裂けて苦い汁の味がするようになったころ、彼が突然立ち上がった。
 すっと手を上げて天を指す。
「ほら、月が欠けるよ」
 水を入れられたみたいに背筋が伸びた。
 わたしは呆然と、右の下端が黒く蝕まれた月を見つめた。何が起ころうとしているのか、とっさに掴めなかったのだ。
「一時間で四割まで欠けたあと、もう一時間で元の満月に戻るよ」
 彼がつぶやいた。わたしははっとする。見せたいもの、というのはこれのことだったのか。
 わたしたちの見守る前で、ゆっくりと、黒い侵食は月を覆っていった。望月が、冴えはそのままに形を変えてゆく。
「すごいよね、地球の影なんだよ」
 感に堪えないといった調子で、彼がささやく。黒い部分は確かにまるい。
「いま僕らがいるこの星の影が、月に映って、僕らそれを見てるんだ」
 わたしは座ったまま大きくのけぞって空を仰いだ。大地が傾いだ気がして、思わず土に爪を立てる。
 自分の立っている地面が平らかではないことを、日常わたしたちは意識しない。月に食い込む影を見て初めて、そのことを気付かされる。
 彼の横顔をわたしは盗み見た。堪らず自分の膝を抱き寄せる。
 この光景をわたしに見せたかったという彼の言葉の真実を、推しはかる術さえわたしは持たない。月光を受けて光る彼の額の形を、眼差しでなぞることしかできない。
 こんなに近くにいて、手を伸ばすこともできない。しかもそれは、かなしいことですらなかった。
 わたしたちはそれぞれの宇宙でたったひとりだと、彼は言った。そのことがいま、わたしにも分かる。
 わたしはわたしでしかなかった。同様に、彼も彼でしかありえない。
 ひとりきりで生きてゆくのではなくても、肩を並べて同じ月を見ていてさえ、違う一対の目で見ているのだった。
 誰をどのようにあいしても、わたしは自分の形が変わることを怖れたし、相手の形を変えることを怖れた。自分という枠からはみださずにいれば、その危険を冒さないで済むと信じていた。
 それは間違いだった。
 わたしたちは、ひとりひとり決して融け合わないことのゆえに、かえって、望むと望まざるとにかかわらず他者を侵食せずにはおれないのだ。


 己の影によって。

*

 彼と別れ、自転車を押して歩き出しながらわたしには、彼はもう気付いているのだと分かった。
 わたしがあえて口にするまでもなく、彼は、わたしの愛情を見抜いているのに違いなかった。そのことをわたしにさえ告げないのが、彼の誠実なのだ。
 ほんとうは、泣けたらよかった。
 彼の昂ぶりを間近にいて感じながら、あのとき、心の隙間から滴り落ちてゆく何かをとどめようもなかった。
 わたしは泣きたかった。
 だが、真夏だというのに冷えきった手指が、わたしに我を忘れることを許さなかった。
 自転車の車輪のまわる音が、閑かな住宅街の路地にやけに響く。
 わたしには、彼という人が分からなくなる。
 あんなにも屈託なく、見せたいものがあるというそのことのためだけに走るなんて、わたしにはできない。
 ほかの誰にもできないだろう。
 こんなにも、とわたしは思った。
 こんなにどうしようもなくあいしていながら、わたしのほうからは、彼に、なにひとつ与えられずにいる。彼から受け取るばかりで、なにひとつとして返せないままでいる。
 彼は、それでも構わないと穏やかに笑むのだろう。
 わたしは立ちすくむ。
 彼がわたしを、わたしが彼を好きなように好きではないとしても、彼のわたしへの愛情に、わたしの彼への愛情はとても及ばないのだと分かった。
 街灯の列が途切れてしまってからも、あたりが薄明るい。
 不思議に思いながら天を仰ぐと、すでに姿を整えた月が、醒めた眼差しでこちらを見下ろしていた。


初出:1999(加筆修正:2000)
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